今思えば、それは恋ではなかったのかもしれない。
 恋によく似ていたし、恋と呼べるようなものに近かった。
 彼女の事は今でも特別大切に思っているし、もしも叶うのならばもう一度会いたい。
 会って、お礼が言いたい。
 もし彼女を想うこの気持ちが恋ならば、彼へ気持ちは何だろうか。
 恋よりも、好きよりも、もっと激しくて、抑えられないほどのこの衝動は。

 意識を失ったユーリを抱え、夜空に飛び上がった。
 医務局へ向かうことも考えたが、こんな状態のユーリを他人の目に晒すわけにはいかないと、珍しく機転がきいた。
 かといって、ユーリの家の場所など知らない。
 公園近くにあるキースの部屋へ連れて行くより、他はなかった。
 帰ってきたキースに気付いて擦り寄ってくるジョンを宥めて、寝室のドアを開ける。
 ベッドにユーリを寝かせて、再び外へ出る。
 コンビニエンスストアで、思いつく限りのものを購入した。
 売っている薬を一通り、ミネラルウォーターを何本か、具合が悪くても食べられそうなものをいくつかと、酒酔いに効きそうな栄養ドリンクを大量に。
 カゴいっぱいにそれらを詰め込んだキースを、店員は不思議そうに見たが、手慣れた様子でレジを打って袋に詰めてくれた。
 袋一杯の商品を抱えて部屋に戻る。
 ユーリはまだ、ベッドの中で目を閉じていた。
 顔色がいつもよりも数段悪い。
 時折、苦しそうな吐息が唇から洩れる。
 その度に、キースは彼の顔を覗きこんでは溜め息をつくのを繰り返した。

 こんな状態のユーリを見るのははじめてだった。
 おそらく、ただ酒を飲み過ぎただけの事なのだろうが、キースもあまり酒には慣れていない為にどう対処して良いかわからない。
 たまに飲みに付き合う虎徹やアントニオなどは、飲みすぎても自分自身で対処してくれる為、キースが手を貸したことはない。
 介抱の仕方だけでも学んでくればよかったと、何度目かの溜め息をついた。

 ユーリを間近で見るのは久しぶりの事だった。
 あの時…あの病室で体を重ねた時から、ユーリと会話らしい会話を交わした覚えがない。
 どうしたら良いものかと散々悩んでみたが、良い答えはまるで思い浮かばなかった。
 またネイサンに相談してみようかとも思ったが、事が事だけに何も言えずにいた。
 あれは、キースの中に常識としてあった、愛し合う行為としてのセックスではなかった。
 まるで暴力のような、相手を…いや、ユーリを傷つけるだけの行為。
 彼は、いつもあんなことをしているのだろうか。
 あんな目に、合わされてきたのだろうか。
 ビジネスで他人と寝ているのだと、ユーリは言っていた。
 今のユーリの地位も、そういったことの積み重ねによるものなのだ、と。
 だがユーリは非常に優秀な管理官であり、裁判官だ。
 そのことは、キースもよく知っている。
 仕事上の相手とセックスをしただけで手に入れたものではないと、キースは思う。
 確かに歴代の管理官と比べると、ユーリは非常に若い。
 しかしそれも不思議でないほど、ユーリはとても実力のある管理官だ。

「君はいったい…」

 何を抱えて生きているのか、と生気のないユーリの額を撫でた。

「ん…」

 ユーリがゆっくりと瞼を開けた。
 その瞳はまだ虚ろで、キースの顔に視点が合うまで時間がかかった。

「目が覚めましたか?気分は?」

 キースは精一杯優しく声をかけた。
 先ほどのように、声を荒げることをしてはいけないと思った。

「…みず…」

 ぽつり、とやっと聞き取れるほどの声でユーリは言った。
 ミネラルウォーターを差し出すと、ユーリはゆっくりと時間をかけて、少しずつ口に含んだ。
 ふらついているユーリの背を支えてやる。
 ユーリの体温はまだ酒が残っているようで、熱かった。
 ペットボトルの半分ほどを飲み終えると、ユーリはようやく息をついた。
 まだ夢見心地で、ぼんやりとしている。

「…ここは?」
「私の部屋です。医務局と迷いましたが、こちらに」
「そうですか…あなたにしては、賢明な判断に感謝しますよ」

 ユーリは唇の端を歪めた。
 まだ覇気はないが、いつも通りのユーリだった。

「気分は悪くありませんか?色々と、役に立ちそうなものを買ってきたのですが」

 サイドテーブルに所狭しと並べられたものを指差す。
 ユーリはそれらを一瞥して、顔を背けた。

「気分は最悪ですよ…今は何も、水以外は見たくもありません」

 深く溜め息を吐き出した。
 凭れているのがキースの腕で、体が触れ合うような近くにキースがいることには驚いたようだが、何も言わずに体を預けてきた。
 顔色は徐々に良くなってきたようだが、ユーリの視線はふわふわと宙を漂っていた。
 しばらくそうして、ユーリを腕の中に感じていた。
 ユーリは何も言わずに、時折思い出したように水を口に含む音だけが聞こえた。

「…さっきの」

 長い沈黙のあと、ユーリはおもむろに唇を開いた。

「さっきの、話。気にはならないのですか?」
「気になる、とは?」
「気味が悪いとか、呆れたとか失望したとか…色々とあるでしょう」

 ユーリは自分を嘲るように、ふ、と笑った。

「そういうふうに、思われたいのですか?」
「そうは言っていません」

 あなたはどう思うのか、と聞いているのだと、ユーリは焦れて言った。

「それは…驚きましたよ。驚きました、とても。けれど、貴方を気味が悪いとか、貴方に失望したとか、そんなことはありません」

 キースの答えに、ユーリは鼻で嗤った。

「本気でそう思っているのですか?」
「もちろん。でなければ、こんな風に貴方を介抱したりはしません」

 キースは本心からそう言っているのだが、何が気に入らないのか、ユーリは不満そうに鼻を鳴らした。

「それに、貴方が優秀な管理官であることは、私も皆もよく知っています。体を売るような真似をしただけで得ることができたようには、とても思えません」
「それは違いますよ。実力だけでは登りつめることなどできないのです…少なくとも、私のいる世界では。必要なのは媚びを売ること、お世辞を並べること、それからコネに賄賂…それが、私にとっては体を提供することだっただけ」

 ユーリはどこか遠くに語りかけているかのようだった。
 いつから、ユーリはその行為に手を染めていたのだろうか。
 きっともっと若い頃から、その美しさを惜しげもなく売りさばいてきたのだろう。
 自分で選んだ道だったとしても、どれだけの屈辱を味わってきたことか、キースは想像もできなかった。

「だが」

 キースはそれを否定した。
 たとえ今までのユーリの生き方を全て否定することになったとしても。

「だが、今の貴方には、もうそんなことは必要がないはずだ。貴方は十分に実力を持っているし、実績もあるはず…」
「だから、なんだというのです?私に、二度と体を売るな、とでも言うつもりですか?」
「…その通りです」

 ユーリはキースを仰ぎ見た。
 緑がかった淡いグレーの瞳は硝子玉のように澄んでいて、けれどその奥には吸い込まれそうな闇があった。

「私は貴方に、こんな馬鹿な真似は二度としないで欲しい」
「馬鹿な事を言っているのはどちらですか」
「私は本気だ。貴方こそ…どうして、貴方は」

 ユーリの顔を両手で包み込んだ。
 色の薄い肌は照明のせいか、浮かび上がるように透き通って見えた。

「そんなに、自分を無下にするのだ」

 ユーリの瞳が揺れた。

「貴方が何を抱えて生きているのか、私は知らない。貴方がそこまでして得たいものがあるのかもしれないし、それなりの理由があるのかもしれない。けれど…」

 キースはいったん息を継いだ。
 この言葉はどこまで、ユーリに届くだろうか。
 いや、届けなければと力を込めた。

「貴方はもっと、自分を大切にするべきだ」

 ユーリは俯いて押し黙った。
 沈黙は長く続いたようにも思うし、ほんの一瞬の事だったのかもしれない。
 ユーリはゆっくりと体を離した。
 キースも、それを止めることはしなかった。
 俯いたユーリの顔は影になってよく見えない。

「…綺麗ごとは、もうたくさんです」

 やっと紡がれた言葉は、感情の波に揺れていた。

「何も、知らないくせに…私の事など何も、知らないくせに」

 ユーリは低い声で笑った。
 自嘲の声音は地を這うようだ。
 だが先程の言葉を取り下げる気はない。

「ユーリ…」
「黙れ!」

 張り裂けるような叫び声。
 キースを睨み付けるユーリの顔が、薄暗い照明の中に浮かびあがった。
 その顔を見て、思わず言葉を失った。
 肌理の細かい肌に張り付いた、引き攣ったような赤黒い跡。
 ところどころ消えかけているのは、その跡を隠す為に施された化粧の名残だ。
 ユーリのグレーの瞳が青白く発光する。
 キースもよく見たことのある、ネクストの光だ。

「ユーリ…君は」

 だがキースの言葉は途中で遮られた。
 ユーリの細い指が、キースの喉に食い込む。

「っ…」

 短い爪が皮膚を引き裂き、痛みに疼いた。
 確かに、キースはユーリの事を何も知らない。
 彼と知り合ってからは随分と経つが、一緒に過ごした時間はごく僅かなのだ。
 けれど、そんなことは関係ない。
 知らないのならば、これから知っていけばいいのだから。
 ユーリの事も、キースの事も。
 首に食い込む指を両手でそっと包んだ。
 力いっぱいに締め付けられていると感じたが、意外にもその指はキースの喉からすんなりと離れた。
 キースよりも一回りは小さい、嫋やかな手。
 キースはその手に唇を寄せた。

「なにを…っ…」

 ユーリの抗議の声は、キースの口付けに吸い込まれた、
 呼気からは僅かにアルコールの香りがする。

「ん…」

 触れるだけの優しいキスが、体の中に染みわたっていくようだ。
 唇に、頬に…その、ユーリの肌の上を這うように刻まれた、火傷の跡も。
 そこに触れた時、ユーリは体を強張らせた。
 抵抗されるかと思ったが、目を固く瞑っただけだった。
 幼い子供のように、怯えて体を震わせる。
 怖がらなくていいと、キースは優しくユーリを抱き締める。
 そしてもう一度、その唇にキスを落とした。









冒頭は空シスが本気で好きな方にはとても申し訳ない気がします
私も好きなんですけどね、空シス

ユーリさんの火傷跡は感情が昂ぶった時に浮き上がってくるそうで
でもアレの時も下手したら出てきちゃうんじゃないだろうかと思って
普段は見えないけど、普段からお化粧してる設定です