夜の公園の空気は澄んでいて冷たくて、まだ酔いの残る頬を心地よく撫でた。
ぼんやりと空を見上げれば、摩天楼をライトアップする光が反射していて、星など一つも見えなかった。 ただ、銀に輝く満月だけが、嘲笑うかのようにユーリを見下ろしていた。 体の中には、まだアルコールと、情事の余韻が残っていた。 家まで送るという男の申し出は丁重に断り、ホテルから歩いてこの場所にきた。 意識したわけではないはずだが、ここはあの、キースがずっと誰かを待ち続けている公園だった。 夜ともなれば人通りは極端に減って、野良犬か野良猫かが茂みの影でごそごそと蠢いているだけだ。 噴水からは離れた場所に腰かける。 冷えたベンチの感触さえ、気持ちがいい。 飲みすぎる、という慣れない感覚に、ユーリは対処しきれないでいた。 歩いてきたはいいものの、ここでしばらく休んでいこうと溜め息をついた。 一体、何をやっているのだろう。 今の自分の姿は酷く滑稽なことだろう。 酒と快楽に溺れて…これでは、父と同じではないか。 たとえどんなことがあろうと、あんなことにはならないと固く誓っているくせに、少し心に隙間ができると安楽な方向に流されてしまう。 親が親なら子も子だな、と他人事のように嗤った。 こんな時間になれば、キースはもういないだろう。 規則正しい生活を送っていそうな彼のことだ、今頃は暖かいベッドで休んでいるのかもしれない。 その隣には、もしかしたら女性の姿があるのかもしれない、と想像して、低く笑った。 そんなことを考えるのは無粋だと思いつつ、溢れてくる感情に歯止めがきかない。 ふいに目の前に影がさした。 見たことのあるスニーカーが目に留まる。 「ユーリ、さん…?」 ユーリの思考を止めたのは、予想をしなかった声だった。 本当に久しく聞いていなかったように思う。 低音が優しく響く、キースの声だった。 霞みがかったような視界に、キースの姿が浮かび上がる。 照明を背にした彼の姿は影になっていて、その表情は上手く見えない。 だがきっと、良い顔はしていないだろうと思った。 久しぶりに見た姿が、こんな見っとも無い姿なのだから。 顔を顰められても仕方がない。 いつもきっちりと着こなしているスーツは皺で寄れていて、胸元も緩められたままだ。 髪は解いたままで、長い前髪が鬱陶しく顔にかかる。 「こんな時間に、どうしたのですか?」 それなのに、キースの声音はまるでユーリを気遣うかのようだ。 いっそ嗤ってくれたらいいのに、と思う。 「…酔って、いるのですか?」 キースが不思議そうに尋ねた。 パーティーなどの席でも、ユーリがあまり酒を飲まないことはキースも知っている。 「たまにはそういう日もあるのですよ…いけませんか?」 「いや、そういう意味では…」 キースはぎこちなく、もごもごと答えた。 「あなたこそ、こんな時間に何をしているのですか?てっきり、誰かと一緒にいるものかと」 思わず、余計なことを口走ってしまった。 キースが誰かと待ち合わせている事など、ユーリは知らないはずなのに。 だがキースは幸いにも、細かい事など気が付かないようだ。 「…いや、私は…確かに、女性を待っていたのですが」 俯いたキースの顔が、ようやく見て取れた。 優しく微笑んでいるはずなのに、どこか悲しく見える。 「どうやら彼女はもう、ここには現れないようだ」 ユーリは目を見開いた。 どういうことなのかと問い詰めたかったが、そんな権利などユーリにはない。 震える声を必死に抑えて、 「数日前…偶然ですが、あなたが花束を持っているのをお見かけしましたが?」 「ああ、見られていたのですか…お恥ずかしい」 キースは困ったように笑った。 目の端が光っているのは、錯覚だろうか。 「ある女性に、どうしてもお礼が言いたくて。でもあの日も、あれからずっと何日も…あそこのベンチで待っているのですが、会えなくて」 キースの口ぶりからすると、その女性とは恋人という関係ではなさそうだ。 確たる約束もしていないのに、よく何日も待ち続けたものだ。 そんな、子供の遊びのような恋があってたまるものかと、ユーリは堪えきれずに声を出して笑った。 「ユーリさん…?」 「ああ、失礼。相変わらず、あなたが子どものように純粋なもので…つい」 笑われたことが気に食わなかったのか、珍しくキースは顔を顰めた。 「…あなたの方こそ」 声は鋭く、ユーリを責める。 「あなたこそ、そんなに香水の香りをさせて…ずっと、女性と一緒にいたのではないのですか?」 「…は?」 ユーリは何を言われているのかわからなかった。 拳を握りしめるキースを不思議そうに見つめる。 彼の言いたい事にようやく察しがついて、ああ、と再び笑った。 「本当に、あなたはこういったことには疎いのですね…この香水は、女性ものではありませんよ」 「…それは、どういう」 「その意味は、あなたもよくご存知なのでは?」 唇の端を釣り上げて、意地悪く笑ってみせた。 途端に、キースの顔が真っ赤に染まる。 「ああ、かといって、恋人と一緒にいたわけではありませんよ。私にとってはビジネスの一環です」 その言葉の意味を、キースはどこまで理解できるだろうか。 この純粋無垢な男には、仕事の為に好きでもない相手とセックスをするなどと、想像もできないかもしれない。 「…なにを、言っているのですか、あなたは」 キースは体を震わせていた。 それが何故なのかはわからない。 目を大きく見開いて、何事かに酷く腹を立てているように見えた。 「なにをしているのですか…あなたは!」 肩を掴まれて、激しく揺さぶられた。 酔いの残る体にはそれが堪えたようで、軽く眩暈を覚える。 キースの青の瞳が揺らめいた。 まるで能力を発動させた時のように、光っているのかと思った。 「だから、仕事のために…私の出世のために、必要な相手と寝ているだけですよ…でなければ」 歪む視界の中で、必死にキースの瞳を睨み返した。 「でなければ、この歳でヒーロー管理官になど、なれるわけがないでしょう?」 喉の奥で低く笑う。 キースが肩を掴む手に力を込めた。 痛い、と思うよりも先に、保っていた意識がユーリの手から離れていった。 徐々に視界が狭くなっていき、キースのジャケットの青が間近に迫る。 ユーリさん、というキースの声が遠くに聞こえた。 |