レストランの窓からは、シュテルンビルトの美しい夜景が一望できた。
 高層ビルの最上階という位置にありながら、特別に高級でもなければ格式ばった場所でもない。
 けれど味もサービスも素晴らしいと評判で、平日でも行列のできる人気店だ。

「よく、予約が取れましたね」

 ユーリは感心した風を装ってそう言ってみた。

「ええ、スポンサーの方から優待券をもらっていたのを思い出したのです。私の行きつけの店でもよかったのですが…あなたには、こちらの方が良いかと思って」

 好きなものを頼んでくださいと、ユーリの前にメニューが広げられる。
 正直、ユーリは何も食べる気がおきなかった。
 それが目の前で満面の笑みを浮かべる男…キースのせい、だけというわけではない。
 そもそも、なぜこのような状況になったのか。
 まずそれが理解できていなかった。
 木曜日の夕方なら空いている、などと、何故教えてしまったのだろうか。
 正確には空いている日などない。
 家に帰っても仕事に使う資料を作成したり情報収集をしたりと、やることは山積みだ。
 それでも、そこまでやる必要はない、と同僚たちに言われている通り、本当は一日くらい休んでも差し支えはない。
 幸い、今は急を要する案件もないのだから。
 それでも、この間のように容赦なく断ってしまうこともできた。

(なぜ、私は…)

 考えても答えがでてこない。
 しいて言うならば…そう、気まぐれ。
 ただの気まぐれとしか思えない。
 そうでなければ、この男と一緒に食事など、悪寒が走る。

「で、何故いきなり私を食事に?」

 結局全てのオーダーはキースに任せ、料理が運ばれてくるまでの間にそう切り出してみた。

「それは、先日に言った通りです。この間の一件のお礼を」
「そんなもの、別に必要ありません」

 一度、ポーカーフェイスを崩してしまったからだろうか、キースの前では以前のように物静かな管理官を演じる事ができなくなっていた。
 言葉の端々に、意図せず毒が混じってしまう。

「礼ならば、あなたのスポンサーから司法局を通して、私の給料という形でいただいています。第一、いちいちこんなことをされていたらキリがない…あなたは良いかもしれないが、ワイルドタイガーなどはこれだけで破産するでしょうね」

 キースの顔がどんどん引きつっていくのがわかる。
 この間の礼というのがただの口実であることはすぐにわかったが、その本心がまるでわからなかった。
 心当たりはないかと考えてみたが、特に思いつくものはなかった。

「いえその…私は、あなたに謝ろうと」
「…は?」

 予想外の言葉だった。
 思わず、間の抜けた声が出る。

「裁判のあと、どうやら私はあなたの機嫌を損ねてしまったようだったので」
「はあ…」

 キースはいたって真剣な顔つきで、丁寧にユーリに向かって頭を下げた。

「申し訳ないが、いくら考えてもあなたを怒らせてしまった理由はわかりませんでした。けれど、とにかく先に謝ろうと思ったのです」

 ユーリは呆気にとられて、何も言えなかった。
 隣のテーブルの客が興味深そうにこちらを見ている。
 そんなことには気づかず、キースは何も言えないでいるユーリに頭を下げ続けていた。
 呼び出された理由を説明されても、ユーリは混乱に拍車をかけられただけだった。
 そんな理由で私の貴重な時間をとか、勘違いも甚だしいとか、言ってやりたいことは山のように浮かんだが、上手く言葉にできなかった。
 料理を運んできたウェイトレスまでもが、不審そうな顔つきで二人を見比べていった。

「キースさん」

 とりあえず、頭を上げさせようとしたが、言い終わるよりも早く、キースは弾かれたように顔を上げた。

「キースさ…」
「何かあったようだ」

 キースは窓に張り付くようにして、下を覗きこんだ。
 見ると、ビルのロータリーには何台ものパトカーが犇めき合い、急を告げる赤と青のランプが騒然と光っていた。
 眼下の物々しい雰囲気を、キースは食い入るように見つめていた。
 先ほどの、どこか情けのないような表情は一気になりを潜めた。
 まるで別人のような顔を、ユーリは不思議な心持で見つめた。
 そこには超がつくほどの好青年ではない、ユーリが最も毛嫌いするヒーローがいた。

「全員動くな!」

 穏やかな音楽の流れるレストラの空気を破る、怒声が響き渡った。
 エレベーターから、武装した集団がいっせいにこちらになだれ込んでくる。
 鈍い色をした銃口が、食事と歓談に興じる客たちに向けられた。
 甲高い悲鳴が響き渡る。

「いいか!死にたくなければ全員、大人しくしろ!」

 両手をあげてこちらに来い、と彼らは命令する。
 さすがにユーリは驚いて息を呑んだ。
 じわり、と嫌な汗が手に滲んだ。
 混乱のなか、幾人かが大人しくそれに従おうとする。
 彼らの目的も何も、この状況では全くわからない。
 けれど、悔しいがここは彼らに従うしかないのだろうか。
 自分の能力をキースや他の人間の前で晒すわけにはいかない。
 キースの能力ならば、あるいは彼らに太刀打ちできるかもしれない。
 しかし、銃火器を持っているうえに人質まで取られてはそれも難しいだろう。
 性能の良いスーツを着ているわけでもなく、支援してくれる仲間がいるわけでもない。
 圧倒的に不利なこの状況下、それでもあんな犯罪者たちに屈しなければならないのは酷い屈辱だ。
 唇の端を噛みしめ、彼らを睨み付ける。
 いっそ、能力を使ってしまおうか?キースと二人ならば、被害を出すことなく彼らを撃退できるだろう。
 いや、だがしかし…
 ユーリが思考を巡らせている横で、キースが動いた。
 キースは怯えた様子もなく、堂々と両手をあげて彼らの方へ向かっていく。

「なっ…」

 その後ろ姿を見てユーリは絶句する。
 いったい、彼は何を考えているのだろう?
 まさか、と思うよりも彼の行動の方が早かった。
 澄んだ青い光がキースを包み込んだ。
 ユーリが制止の声を上げた刹那、嵐のような風が室内に吹き荒れた。
 再び、悲鳴が響いた。

 まさに一瞬の出来事だった。
 犯人たちが引き金を引くよりも早く、キースは彼らの体を吹き飛ばして壁に叩きつけた。
 たったそれだけで、勝負はついてしまった。
 体をしたたかに打ち付けた犯人たちは気を失っているようだった。
 彼らが構えていた銃は全て鎌鼬で切り裂かれており、使い物にならなくなっていた。
 茫然とその光景を見つめていた客たちは、一斉に歓声をあげた。
 反対に、ユーリは深々と溜め息をついた。
 安堵したから、というわけではない。

(この男は…!)

 沸々と、感情が込み上げてくる。
 怒りのような苛立ちのような感情が渦巻いて、それに気付くのが遅れた。
 湧き上がる歓声のなか、振り返ったキースの顔が凍りつく。

「う、動くな!」

 体がぐい、と後ろに引き寄せられた。

(しまった…!)

 そう思った時にはもう遅かった。
 歓声は一転して静寂に包まれて、誰かがまた叫び声をあげた。
 冷たい刃が喉元に突きつけられる。
 見せしめのように皮膚が一枚切り裂かれ、生暖かいものが痛みと共に喉を流れていった。
 犯人の一人が、いつのまにかユーリの背後にぴたりとくっついていた。
 ユーリよりも一回りは大きな男が、先程のキースの能力に震えている様は滑稽だ。
 だがそれを笑う資格は、今の自分にはない。

「…彼を離したまえ」

 キースは努めて静かに犯人を諭した。
 青い光がキースの怒りを示すように揺らめいた。

「ひっ…来るな!」

 犯人は情けなく叫んで、ナイフに力を込める。

「っ…」

 ユーリは思わず呻いた。
 先ほどよりも鋭い痛みが喉元を襲った。
 キースは慌てて能力を収める。
 だがそれも、もう遅いようだった。

「いいか…こいつの命が惜しかったら、そのままおとなしく、動くんじゃねぇぞ…」

 男はユーリを連れて、窓際までじりじりと後退する。
 男の荒い息遣いが、ユーリの首筋を不快に撫でる。
 もう後には、大きな窓ガラスが一枚しかない。

(どうする気だ?)

 誰もが微動だにできず、息を呑んで成り行きを見守っている。
 キースも動くことができず、ただ怒りを露わにして男を睨み付けていた。
 そんなキースの様子に、男はざまあみろ、と卑しく笑って見せた。
 男はユーリを抱きかかえ、窓ガラスに体当たりをした。
 ガラスはとても分厚く、おそらく防弾加工もされていたに違いない。
 それでも耳を劈くような音を立てて容易く壊れてしまったのは、男もまたネクストの能力を有しているからだった。
 突風がユーリの体を攫った。
 飛び散る硝子の破片に、思わず目を閉じる。
 無数の破片がユーリの体に幾筋かの傷をつけた。
 男が背負っていたジェットパックを展開する。
 だが、それは明らかに一人用に作られたもので、二人分の体重を支えきれず風に遊ばれて浮いては沈んでいく。

「っ…、どうする、つもりっ…」

 このままでは二人とも助からない。
 だが男は余裕の笑みを見せると、じゃあな、とユーリの体を放り投げた。

「あ…」

 ふわり、と体が宙にういた。
 浮いたと思ったのは一瞬の事で、景色がぐるりと回転し、急速に落ちていく。
 体を切り裂くような風で、息をすることさえ儘ならない。

(こんな、ところで…!)

 絶望などしている暇はない。
 もう、能力がばれるとか、そんなことを考えている状況ではなかった。
 青の炎が背に灯る。
 背が焦がれるような感覚がした。
 と、体がそれとは別の力に引き寄せられる。
 落ちていく景色は速度を落とし、引き裂くような風は心地よいくらいに頬を撫でた。

「よかった…」

 見上げると、思ったよりも近い位置にキースの顔があった。
 安堵に緩み、目には薄らと涙が浮かんでいた。

「よかった、本当に…間に合わなかったら、どうしようかと」

 ユーリを抱きしめる腕に力がこもる。
 何が起こったのか、ユーリは瞬時に理解できなかった。
 どうやら能力を使うよりも先に、この男に助けられたらしい、と気付いた瞬間、体の力が一気に抜けた。
 張りつめていた呼吸が吐き出される。

「大丈夫ですか?」
「だいじょう、なわけ…」
「そうですね…深い傷ではなさそうですが、このまま病院へ行きましょう」

 キースは風を上手く操り、夜空を旋回する。

「…あなたという人は…っ」

 礼を言うつもりは毛頭なかった。
 助けられなくとも、自分の身くらい自分で守れるだけの力はある。
 それなのに、結果的には彼に命を救われたような形になったのが不服で、屈辱でたまらなかった。
 悪態の一つでもつかなければ気が済まないと口を開いたが、

「あまりしゃべらない方がいい。喉の傷に響きます」

 キースが穏やかに制した。
 それの気遣いさえも気に障る。
 更に言いつのろうとしたユーリの喉元に、暖かいものが触れた。
 それがキースの唇だという事に、はじめは気が付かなかった。
 心地よい人の体温が傷口の痛みを和らげる。

「ほら、傷が少し開いてしまったじゃないですか」

 キースは優しく微笑んだ。
 それ以上、何を言う気もなくなってしまった。

 夜中でも救急の外来を受け付けている病院は、シュテルンビルトでも限られている。
 キースは昼夜関係なく傷を負うヒーロー達の為に、ジャスティスタワー内に設けられた医療施設に向かった。
 応対に出た事務員は二人を見て怪訝な顔をしたが、ユーリの傷を見てすぐに医療スタッフを呼んでくれた。
 彼らにユーリを任せると、

「私は少し、用事を済ませてくるので失礼します」

 あとで迎えに来ますから、と踵を返した。

「あ、それから」

 キースは内緒話をするようにユーリの耳元で囁いた。

「次は私の行きつけの店へ行きましょう。あなたはもう少し、食べた方が良い」

 では、とヒーローである時と同じように片手をあげて、颯爽と去って行った。
 スタッフに案内されて、処置室で簡単な治療を受けた。
 それだけで十分な程度の浅い傷だけだ。
 迎えに来る、といっていたキースの言葉を無視して、ユーリは帰路についた。
 全く、散々な目にあった夜だった。
 だが不思議と、疲労感はなかった。

(あんな目に、あったのに…)

 緩めた襟元から、大袈裟に巻かれた包帯が見える。
 しばらくはしておくように、と言われたそれを躊躇なく解いた。
 まだ真新しい赤い傷に触れる。
   キースに触れられた傷口が、ちくりと疼いた。

 翌日、スカイハイがプライベートで逃走中の強盗団を逮捕した、というニュースが新聞の一面を飾った。
 窓から逃げ出した一人も追いかけ、見事に逮捕したという。










キースは天然天使だと思ってますが、なかなか難しいですね。キャラ崩壊します。
ついでに虎徹同様、天然たらし。

なんかこの話、長編になるらしいですよ。
突然、空月萌え(っていうかユーリさん萌え)が来たので仕方ない。
間に単発の話も書きつつ、完結できるように頑張ります。
需要があるのかは謎ですがw