もう、逃げるのは限界だった。
 能力はとうに切れている。
 それでも必死に走って、走って―逃げ込んだのは、狭い路地裏だった。
 人が一人通れる程度の幅で、陽の光さえ満足に届かないような、薄汚れて湿った場所だ。
 後ろは行き止まり。
 左右には背の高いビル。
 こんなところで終わるのか、と思ったが、涙は出なかった。
 そんなもの、もう枯れ果ててしまったのかもしれない。

「そこまでだ」

 怒りを顕わにしたバーナビーが一歩一歩近づいてくる。
 ヒーロースーツはまだ煌々と輝いて、圧倒的な力の差を示していた。
 もっとも、力などなくとも弱り切った今の虎徹など簡単に捕まえることができるだろう。
 それでいい、と虎徹は思った。
 もう、それでもいい。
 逃げることにはもう疲れてしまった。
 真実がどうとか、何故こんなことにとか、考えるのも億劫だ。
 捕まった後、法廷で身の潔白を証明すればいい…そんな気さえ起らない。
 否、おそらくそれは不可能だということを、勘の鈍い虎徹でも薄々気づいていた。

 何もない―職も能力も、家族とその約束も、仲間と過ごした時間も、相棒との絆さえも、全てを失くしてしまった自分は、本当に無力で無気力だ。
 今の虎徹に残っているものといえば、疲労感くらいのものだ。

「わかったよ…好きにしろ」

 溜め息と共に、投げやりな言葉を吐き出した。
 走りつかれて震える足が、崩れるように地面についた。
 バーナビーの顔を上手く見ることができない。
 見てしまえばきっと、懐かしさにまた縋ってしまいそうな気がした。

 ふいに、笑い声が聞こえた。
 誰の、と不思議に思って顔を上げると、バーナビーが肩を震わせていた。

「…バニー?」

 思わず、名前を呼んでしまった。
 バーナビーはなおも笑う。

「ちょっと…待ってください、もうっ…!」

 耐えきれない、と一頻り笑った。
 こんなバーナビーは初めて見る。

「ちょっと、ハンサム!笑っちゃダメじゃないの!」

 バーナビーの後ろから顔を出したのは、ファイヤーエンブレムだ。

「すみませんっ、でも…!」
「そうだとも!私はこれを持って登場するのを心待ちにしていたのに!」

 路地裏に風が吹き抜け、空からスカイハイが降りてきた。
 手には一枚のプラカードを持っている。
 そこに書かれた文字を見て、虎徹は目を丸くした。

「へっ…ど、ドッキリ?」

 古めかしいその言葉は、それでも虎徹を救うには十分だった。

「ドッキリって、えっ?」
「まだわからんのか?ニブイやつだな」

 ロックバイソンが巨体を揺らして笑った。
 その背後から、ドラゴンキッドと折紙サイクロン、ブルーローズが可笑しそうに笑いながら出てくる。

「じゃ、今までのって」
「やりすぎたんじゃない?ボロボロになっちゃって、カッコ悪い」

 ブルーローズが相変わらずの悪態をついた。
 張り詰めていた全身の力が抜けていく。
 泣いているような、笑っているような、おかしな声が出た。

「はははっ…そうか、なんだよ…そういうことかよ」

 ハンチングで目元を隠した。
 きっと今、ひどい顔をしている。
 暖かな笑い声に包まれた。
 冷え切った体と心が徐々に緩んでいく。

「そういうことですよ。だいたい…」

 バーナビーが手を差し出した。

「僕が貴方のことを、忘れるわけありませんよ…虎徹さん」

 顔をあげると、穏やかに笑うバーナビーがいた。
 僅かに差し込んできた光がとても眩しくて、目を細めた。

「虎徹さん」

 差し出された手を、強く握り返そうと―



―伸ばした手は、空を掴んだ。



 灰色に濁った空。
 狭い路地裏は薄汚れていて、空気さえも澱んでいた。
 周囲は高いビルに囲まれていて、晴れていても日の光など満足に届かないだろう。
 空虚を掴んだ手の先に、自分の顔写真が載った、破れかけたポスターがあった。

(―ああ、なんだ)



 悪夢はまだ、終わっていなかったのか。









…っていう夢を見ました(マジで)

目が覚めた時の気分といったら